データ駆動型の世界における知的財産
2019年WIPO総会の会合に先駆けて、フランシス・ガリWIPO事務局長が、知的財産政策に対するビッグ・データの影響について考察します。
人工知能のような先進技術により加速するデジタルトランスフォーメーションの影響を受けて、世界的な知的財産の展望はどのように変化していますか?
デジタルトランスフォーメーションが世界的な知的財産の展望に与える影響に関する私たちの見解は、非常に予備的なものです。しかし、私たちはそれが急速に変化および拡大し、知的財産制度および知的財産政策の管理に非常に大きな影響を及ぼすことを認識しています。知的財産管理に対する影響を操作することは比較的簡単です。大局的には、これらのテクノロジーを適用および使用して、知財庁の業務効率を改善する利点を評価することを伴います。難しいのは、これらの技術がいかに知的財産政策に影響するかを解明することです。今日、私たちが保有する知的所有権は、主に大量生産に対応するために産業革命を通じて発展してきたものです。現在私たちが直面している大きな課題の一つは、これら既存の知的所有権が、デジタル時代のイノベーションを促進するために必要なインセンティブをもたらすのかどうかということです。
新しいデータ駆動型経済において、依然として従来の知的財産制度の意義はありますか?
現時点において、ビジネス界では従来の知的財産制度は決して時代遅れではないとされています。統計では、 従来の知的財産制度に関してかつてないほどの使用率が記録されており、その成長率は世界的な経済パフォーマンスを大きく上回っています。しかし、高度なデータ駆動型のデジタル技術が、デジタル経済における経済的生産および流通に関して明らかに支配的な力を持っているという事実に留意する必要があります。また、私たちは、統計が産業経済に関連した使用率の上昇を示しているのか、また、これがデジタル経済にも適用されるのかについても考察する必要があります。デジタル経済を支配するデータ駆動型技術がもたらす全ての課題に対処するうえで、従来の知的財産制度がいかに効果的であるかは不明確なままです。間違いなく、これらは知的財産政策立案者にとって大きな課題となります。
各国がデジタル経済に合わせて国家のイノベーション政策を調整し始めているという兆候はありますか?
はい。数々の国が、国家の経済戦略の中心に人工知能を配置する戦略を採用してきました。人工知能を含む高度なデジタル技術は、データの操作を通じて有益で新しい製品やサービスを開発することができます。そのうちのいくつか、特に人工知能は、より大きなデータにアクセスすることで、パフォーマンスを向上します。現在、有益で便利な製品やサービスの開発のためにデータを入手可能にすることは良いことだ、という大筋での合意があります。しかし、政府が企業に競合相手と企業機密データを共有するよう要求することは、合理的に言って不可能です。政府ができることは、公的サービスの提供を通じて収集されたデータや公的資金による研究から集められたデータのような公的サービスデータを、それに価値を見出す企業が使用できるようにすることです。データの公的使用を支持する科学者のような特定の個人当事者は、同様の実践を採用しています。デジタル経済におけるデータを取り巻く複雑な政策課題はまだ数多くあります。
「デジタル経済におけるデータを取り巻く複雑な政策課題はまだ数多くあります。」
WIPO事務局長フランシス・ガリが、
データに関する効果的な知的財産政策の枠組みを作成するうえで、政策決定者にとって重要となる次のステップは何ですか?
データの収集、保存、使用に関して合理的かつ適切な実践とは何かを定義する必要があります。言い換えれば、データの収集およびその後の使用に適切な制約とは何かを特定し、なぜこれらの制約が必要なのかを理解する必要があります。全タイプのデータ(例えば、音声、テキスト、画像など)を収集する非常に強力な手段は存在しますが、それらデータを収集および使用するための適切な手段を特定する必要が依然としてあります。
「データの収集、保存、使用に関して合理的かつ適切な実践とは何かを定義する必要があります。」
フランシス・ガリ WIPO事務局長
データ使用に関して制約を設ける際、どのような要素が必要となりますか?
プライバシーはおそらく、データに関して最も関心度の高い要素でしょう。欧州連合の一般データ保護規則(Union’s General Data Protection Regulation 、GDPR)がその結果と言えます。世界人権宣言(第12章)では、プライバシーは人権として認められています。しかし、興味深いことに、現在のプライバシーに関する政策の明確さの欠如により、一部の企業がそれを競合手段として利用するという状況が生まれています。例えば、特定の企業が競合他社よりも優れたプライバシー保護手段を提供すると主張します。それぞれが顧客データの収集、保存、使用に関する制約を伴う可能性がある同様の製品で市場参入する他社を想像できます。
例えば、個人のプライバシーを保護するため、または特に競争上の優位性を維持するためにデータが公開されないことを望む場合は、セキュリティがもう一つの要素になります。通常の状況下では、国家はそのような制約を課さないため、セキュリティは特有の課題をもたらします。物理的経済の言葉を使用すると、国家は一般的に、個人が他人の敷地に不法侵入することを許可しないという観点からセキュリティにアプローチします。政策立案者は現在、これをどのようにデジタル経済に適用するかを決定する必要があります。彼らの結論が、データ収集および使用に関してさらなる制約をもたらすようになるかもしれません。
データがデジタル経済における製造および流通に対する基本的なインプットである限り、市場支配力の集中、そして競争に対するその影響もまた、データの収集、保存、使用に対する制約を強化する要因となるでしょう。競争政策は、支配的市場地位のある経済主体による市場権力の乱用防止を目的としています。関連する政策が策定されている一方で、政策決定者はデジタル市場またはこの状況における反競争的行動がどのようなものなのか、未だ完全には理解していません。
課税はデジタル経済におけるもう一つの大きな課題です。物理経済において、財源、居住地、市民権は一般に、政府が課税する権利を主張する根拠です。プラットホームが世界のどこかで稼働している一方で、別の場所では商品を販売し、それをダウンロード可能にするデジタル経済に、これらのコンセプトはどのように適用されるでしょうか?税務署はこのような取引をどうしたら追跡できるでしょうか?税金は、例えば、プラットホームの本社が拠点を置く場所など、商品を提供する場所で徴収されるべきでしょうか?それとも、商品が購入された国で徴収されるべきでしょうか?このような取引で創造された価値に課税する権利は誰にあるのでしょうか?経済協力開発機構(OECD)は、これらの課題をより深く理解するため尽力しています。
そしてもちろん、財産および知的財産は特に大きな要素です。従来の知的財産政策では、経済主体が秘密を守るために合理的な措置を講じた非公開データ、および経済的価値が認識されている非公開データは、企業秘密を含んでいる可能性があります。デジタル経済における企業秘密は、経済的重要性のある非公開データを保護する独占的な手段となってきました。しかし、企業秘密はデータを十分に保護しているでしょうか?企業秘密は従来の意味合いでは知的所有権には当てはまらず、個人が他人の企業秘密を侵害または悪用する権利を持たないという意味で関係権利です。例えば、企業がある理由から委託業者にデータを渡した場合、委託業者は他の用途でこのデータを使用することはできません。政策決定者は、企業秘密がデジタル経済におけるデータ保護に関連して発生する課題全てに的確に対応しているか、またはそれらを規制しているかどうか検討する必要があります。
データに関する新しい財産権は今後、出現すると思いますか?
現時点では、データに関する登録可能な新しい財産権は予見していません。新しい権利が出現した場合、それは社会がデータの不正な収集、保存、使用に関わる立場になり、その範囲外のものは合法であるとみなされることに起因します。制約は同時に、私たちが通常、財産として考える排他的権利の基礎として認識されるかもしれません。例として、紀元前1754年のバビロニアハンムラビ法典について考えてみてください。あの法律では、羊の財産権は与えられていません。ただ単純に、隣人の羊を盗むことは不道徳で、罰すべきだと述べています。このようにして、データの収集、保存、使用に関して情報の自由な流れに対する制約を作った場合、ある段階でそれが結果的に、財産権になるかもしれません。
機械の財産権の取得の可否についての見解を聞かせてください。
この質問は現在、非常に注目されています。回答するにあたり、私たちは知的財産政策およびイノベーション政策の開発の出発点が、望ましい結果を導くことにあることを忘れてはなりません。私たちが達成したいこととは何でしょう?これは基本的な質問です。機械に権利を与えることでイノベーションが推進されると社会が考えるのなら、そのような提案は牽引力を得るかもしれません。しかし、そのような権利は社会でどのように機能するでしょうか?ある段階で、人類はその権利から収入または利益を得なくてはなりません。さらに言えば、発明者や科学者はすでに、様々な技術を利用して発明品を開発し、それがなければ不可能だった成果を達成しています。
「知的財産政策およびイノベーション政策の開発の出発点が、望ましい結果を導くことにあります。」
WIPO事務局長フランシス・ガリ
知的財産政策決定者が考慮すべき、より関連性のある課題は他にもありますか?
はい。人工知能ベースのアルゴリズムを伴うデータの使用に対する制約に関して、非常に重要な課題があります。例えば、学習のために人工知能アルゴリズムに著作権データを与えることは、著作権の侵害に当たるでしょうか?これは難しい質問です。なぜなら、第一に、私たちはそのような制約がどのような影響を与えるか把握していません。第二に、私たちは、深層学習アルゴリズムによって作られた作品が、著作権データを使用して作られたものかどうか、知ることができません。そのため、私たちは、達成したい成果やそれを達成するために必要な手筈を注意深く検討する必要があります。
WIPOはデジタル経済に向けてどのような準備をしていますか?
政策レベルでは、政策決定者が検討する必要のある質問を総合的に策定し、新しいデジタル経済のための効果的なイノベーション政策設定を作成するための潜在的な方法を総合的に議論することを目的として、締約国同士の対話を奨励しています。私たちはこれらの課題に対して国際的な立場からはかけ離れていますが、実践は重要ですし、非常に価値があることです。デジタル経済におけるデータ駆動型技術の優位性に対する知的財産政策の影響について理解を深め、これらの課題に対する国家的立場の構築を支援します。
運営レベルでは、WIPOは多国間組織として、分配の公正、そして、デジタル経済の急速な進化が発展途上国のデジタル経済に参加し、そこで競合する能力に与える影響に関する問題に対処する必要があります。これにより必然的に、WIPOの開発プログラムの性質を伝えることになります。
組織のサービスに関して、WIPOのデジタルトランスフォーメーションの範囲は広大です。WIPOは、オンラインプラットホーム、そして、プラットホームのための新しい人工知能ベースツールの開発に引き続き投資していきます。例えば、WIPO TranslateはWIPOのGlobal Brands Database用画像検索技術で、WIPOの会議記録の品質およびスピードを改善する音声テキスト変換技術を搭載したツールの新シリーズです。その他、様々なツールを現在準備しています。
また、WIPOは、締約国による承認を受け、 一種のデジタル公証サービスであるデジタルタイムスタンプサービスを提案しています。これにより、イノベーターやクリエイターは、デジタルファイルが特定の日時に彼らの所有物だったこと、または彼らの管理下にあったことを証明できるようになります。これは、デジタル経済において発明家やクリエイターの知的財産権の保護を強化するための小さな、しかし重要な一歩です。また、WIPOのサービスをデジタル経済という現実に移行させるための重要な段階でもあります。
これら発展を素晴らしい新製品およびサービスとして紹介するのは簡単です。しかし、私たちは、大規模な変革発展に対処するための政策解決案を見つける必要があるという事実を見失ってはいけません。
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