知的財産、イノベーション、アクセス、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)
著者 フランシス・ガリ(WIPO事務局長)
現時点における主な課題は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチン、医療または治療法にアクセスできるかということではなく、アクセス可能な承認済みのワクチン、医療または治療法が存在しないことです。したがって、この段階における政府の政策では、ワクチン、医療または治療法を生み出す科学やイノベーションの支援に焦点を当てるべきです。
アクセスに関して、最初の任務はアクセスに対する障壁を特定することです。重要な医療用品または医療機器の製造能力の欠如、国境を越えたそのような供給品および機器の移動に対する妨害、輸入税、内部輸送および配達メカニズムの欠如、適切な医療制度およびインフラの欠如など、アクセスに関して多くの障壁が存在します。政府はこれらの妨害に対処する必要があります。
イノベーションおよび創造的コンテンツへのアクセスを促進する
イノベーションが効果的な成果を生み出しても、国が適切かつ手頃な価格でイノベーションを得ることができない場合、知的財産もまた、アクセスの障壁となるかもしれません。これに関して、知的財産が障壁となっている場合にイノベーションへのアクセスを容易にする規定が、国内および国際レベルで存在しています。これらの規定の適用は、対象を絞って、時間を限定して行われるべきです。言い換えれば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックの期間に知的財産がアクセスの障壁になっていることが実証された場合に、それに対してのみ適用されるべきで、また、イノベーションがなければ、アクセスできるものすら存在しないことを念頭に置く必要があります。
現時点における主な課題は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチン、医療または治療法にアクセス可能かということではなく、アクセス可能な承認済みのワクチン、医療または治療法が存在しないことです。
文化産業およびクリエイティブ産業では、特定の状況および条件下にある書籍、出版物、その他の創造的なコンテンツへのアクセスを容易にするために、知的財産制度に例外と制約が存在します。このような創造的コンテンツは、イノベーションまたはコロナ危機への対応で必然的に課せられる隔離と都市封鎖という悪条件への対処に不可欠なデータ、情報、知識の普及において重要な役割を果たします。コロナ危機に関連するこのような柔軟な対応は、アクセスの欠如を実証することを目的としており、その目的は、危機下におけるアクセスの欠如の是正に限定する必要があります。注目すべきことに、世界中の多くの権利者が、危機下で膨大な量の関連コンテンツへの無料アクセスを提供するために、革新的なライセンスの取り決めやその他の措置を通じて自発的に措置を講じています。
イノベーションの原動力としての知的財産
技術の進歩によってますます推進される世界経済では、知的財産がますます中心的な役割を果たすようになっています。
知的財産の主な役割の1つは、イノベーションを促進し、発明から商品やサービスに至るまでの多くの、しばしば危険な段階を経て、安全に通過できるようにするインセンティブの枠組み提供することです。同様に、クリエイティブ業界においても、知的財産は作詞家と作曲家、演者、出版社、音楽やオーディオビジュアルプロデューサー、放送局、ライブラリーや様々な電子配信プラットフォームなどの配給業者の関係や商取引を奨励および促進するビジネスモデルの中心的な役割を果たしています。
コロナ危機が、[中略]与える劇的な影響を考えると、世界は、ワクチン、医療、治療法を追求するために、利用可能な全てのイノベーション戦略、インセンティブ、システムを配備する必要があります。
競合する利害関係のバランスをとる
適切に機能する知的財産制度は、技術的およびビジネスでのイノベーションや文化的な創造性を取り巻く様々な競合する利益のバランスをとることを目指しています。
テクノロジー分野おけるこれらの利益には、スタートアップ企業、公共および民間の研究開発機関、大学および企業の利益、官民を問わず財政的支援者の利益、イノベーションが起きた場合に最終的な利益を得る一般の人々の利益が含まれます。
クリエイティブ産業の分野においては、著者やジャーナリスト、音楽の作曲家、写真家、ビジュアルアーティスト、ミュージシャン、俳優、出版社、音楽およびオーディオビジュアルプロデューサー、メディア、ビデオゲームのオーサリング、開発、制作者、放送局、図書館、アーカイブ、音楽とビデオのプラットフォーム、そして消費者など、様々な利害関係者が含まれます。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のような緊急事態の緩和:知的財産政策措置
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、世界中で広範囲にわたる深刻な被害と悲惨さを引き起こしています。パンデミックと闘い、それによる被害を軽減し、ウイルスのさらなる増殖を阻止するために政府が実施している措置も、必要な副作用として、広範囲にわたる経済的混乱を引き起こしています。そして次に、ビジネスが停滞し、グローバルバリューチェーンが機能しなくなり、従業員や起業家、そしてギグエコノミーの多くの当事者が生計を失うことで、さらなる被害を引き起こしており、今後もこれは続くでしょう。
知的財産制度は、緊急事態または大災害が発生している間、緊急事態または大災害が同制度の基礎となっているインセンティブの枠組みの正常な機能を妨害するような措置を要求する可能性があることを、国内および国際レベルの両方で認識しています。
緊急事態や大災害を管理および軽減するために知的財産に関する国際法および国内法のもとで利用可能な政策措置には、強制実施権や重要な医薬品および薬品に組み込まれた特許技術の権利のライセンス供与が含まれます。また、ウイルスと闘い、ウイルスを封じ込め、それが引き起こしている人間の苦しみを軽減し、リモートまたは仮想環境で任務を遂行し続けるために学校や大学などの混乱した機関を再開する目的で、重要なデータ、情報、知識の可用性を確保するための文化的および教育的作業に関連する例外的対処もそれに含まれます。これらの措置が対象を絞り、時間を制限した上で展開される場合は有用です。そして、対処する必要性があると証明されている場合は、これらが非常に重要になります。
自発的な行動およびその他の経済政策措置
アクセスの欠如の存在およびあらゆる政策措置の評価は、コロナ危機の間、社会的責任を行使する組織、企業、その他の権利者によって行われている多くの自発的な行動という観点からも考慮されるべきです。
技術分野におけるこれらの対応には、革新的なライセンス契約、無料で使用できる科学データの公開、第三者が製造できるようにするために人工呼吸器など重要な機器の技術仕様を公開すること、そして、特定の法域における特定の特許執行の放棄が含まれます。
文化産業では、多くの権利者が、学校、大学、図書館、研究機関、一般の人々が自身の作品を簡単に利用できるようにするための措置を講じています。これらのステップには、革新的なライセンスの取り決め、SARV-CoV-2に関連する研究への無料アクセス、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を引き起こすウイルス株、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する新聞やメディア記事への無料アクセス、多くの教育的文書への無料アクセス、オンライン学習プラットフォームや電子書籍、そして、コンサート、オペラ、その他の文化作品の無料配信が含まれます。
知的財産権に関連する政策措置と自発的な取り組みは、世界中で起こっている景気後退の最中に、非常に必要とされているイノベーションの存続を確保するため、製造能力の要求、公的調達の使用、資本の投入、スタートアップ企業や中小企業に対する金融緩和など、技術や技術製品に影響を与える可能性がある他の経済政策分野で講じられている措置を補完することができます。
必要不可欠なイノベーション
コロナ危機は非常に速いペースで進展しており、それに関する情報は変化し、同様に速い速度で入手できます。現時点では、知的財産がワクチンなどの重要な医学的予防手段、または医療や治療法へのアクセスに対する障壁であるという証拠はないようです。問題はむしろ、利用できるワクチンや科学的に立証された承認済みの医療や治療法が未だにないことです。したがって、現在の段階での主な政策課題は、ワクチン、医療、治療法につながるイノベーション、そして、ウイルスとその感染パターンに関するデータに基づく追跡アプリケーションの開発や人工呼吸器などの重要な医療機器の製造や性能の改善など、危機管理を支援するイノベーションを奨励することです。
この段階において、必要なイノベーションを奨励するのではなく、存在しないワクチン、医療、または治療法へのアクセスに焦点を当てることは、イノベーションとアクセスの順序付けに対する誤解を生むだけでなく、必要なイノベーションへの投資に対する意欲を阻害する可能性もあります。
知的財産制度は、緊急事態または大災害が発生している間、緊急事態または大災害が同制度の基礎となっているインセンティブの枠組みの正常な機能を妨害するような措置を要求する可能性があることを[中略]認識しています。
上記のように、コロナ危機の管理には、知的財産とイノベーションに直接関係しないその他の政策課題が数多くあります。政府はまず、健康と人の福祉と安全の観点から危機を効果的に管理するためにその障害を特定し、これらの障害に対処することが重要です。前述のように、これらの障害には、人工呼吸器や個人用保護具などの必要な関連医療機器の製造能力の不足、医療用品および機器の移動または輸送の障害、適切な医療施設の不足、医療従事者の確保、ブロードバンドへのアクセスの不足、十分な医療制度および医療インフラの不足が含まれます。これらはいずれも、知的財産が重要な医療用ワクチン、医療、治療法へのアクセスをブロックすることで発生している問題ではありません。
イノベーションエコシステムは非常に複雑であり、多くの異なる政府や市場関係者、多くの異なる政策、プログラム、事業が含まれます。例えば、グローバル・イノベーション・インデックスは、教育制度や教育機関、研究開発費、科学出版物、知的財産の出願、資本市場へのアクセス、規制の枠組み、ビジネスと市場の高度化などの分野を網羅し、80を超える指標を使用してイノベーション能力とパフォーマンスを測定しています。
コロナ危機が人の健康と福祉、そして、経済生産と経済福祉に与える劇的な影響を考えると、世界は、ワクチン、医療、治療法を追求するために、利用可能な全てのイノベーション戦略、インセンティブ、システムを展開する必要があります。一つの戦略やソリューションに焦点を当てたり、イノベーションシステムの複雑さを過度に単純化したりすることは、イノベーションの複雑さに関して誤解を生むことになります。
一般的に言えば、研究開発の70%近くが商業部門によって資金供給されているのに対し、約30%は政府が資金提供していることに注目すべきです。また、研究開発の約70%は商業部門によって、30%は政府によって実施されています。イノベーションを促進するための効果的な戦略またはアプローチでは、研究開発の主要な資金提供者および実行者が成果を生むことを奨励するために、適切なインセンティブを設定しなければなりません。知的財産は、これらのインセンティブの中心的役割を担います。
政府および市場関係者がイノベーションを強化する方法
イノベーションパフォーマンス、特にコロナ危機の緩和、そして、最終的には解決策を導くイノベーションの成果を促進するために、政府と市場関係者が実施できる様々な施策があります。世界中の多くの人々、機関、企業がそのような成果を達成するために精力的に取り組んでいます。世界にSARS-Cov-2が出現して以来、世界中で360件を超える潜在的な治療法に関する臨床試験が行われています。
成功には、利用可能な全ての政策措置とビジネス慣行の適用が必要です。これには、公的研究資金の増加、科学に関するコラボレーション、科学的成果の共有、官民パートナーシップ、関連するイノベーションへの投資を誘致するための市場インセンティブの使用が含まれます。
WIPO:国際社会のための取り組み
WIPOは、イノベーション政策、例外と制限に的を絞った使用、知的財産が障壁であることが証明されているものへのアクセスを確保するための適切で柔軟な対応、そして、コロナ危機とその経済的影響から生じる損害を軽減するための知的財産法や規制の修正に関するアドバイスや支援の提供を希望する全ての加盟国に対応しています。
当機関では、関連する製造能力の不足やサプライチェーンの混乱など、様々な形態の対応を必要とする他の要因とは対照的に、対策は、危機と、知的財産が障壁になっているという証拠があるアクセスの欠如に、的が絞られるべきであると考えています 。
対策も、最優先事項として被害を軽減することを目指すべきですが、ウイルスを封じ込めるための必要な措置の結果として被害を受けている文化的および技術的コミュニティの発明者、著者、クリエイター、パフォーマー、スタートアップ企業およびその他の経済主体のニーズにも留意する必要があります。危機から抜け出し、機能する経済社会の回復を目指すのなら、彼らが生き残っていることが経済社会の回復と幸福にとって不可欠になるでしょう。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)時代のイノベーションの挑戦を支援する
イノベーションの挑戦に貢献するためにWIPO内で取られてきた措置として以下が挙げられます。
- 期限の延長と手数料の支払いに関する猶予期間の設定を通じて、窮地に陥った経済主体に対処することでイノベーションに貢献するために知財庁が実施した措置に関する情報を提供するクリアリングハウスまたはポリシートラッカーの設立。さらに、ポリシートラッカーは、例外、制限、または強制実施権に関して利用可能な、または制定された政策措置に関する情報を提供します。
- 8000万件を超える技術開示、多言語検索機能、自動翻訳システム、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の検出、感染防止、治療に関する発明について、公開特許で開示された技術情報へのアクセスを強化するために特別に開発された新型コロナウイルス感染症(COVID-19)検索および検索機能を備えたデータベースPATENTSCOPEの提供。この貴重な技術情報源は、世界中の何十万もの科学技術機関や営利事業で日常的に広く使用されています。
- 主要な科学技術雑誌への無料のオンラインアクセスを後発開発途上国の現地非営利組織に提供し、中所得開発国の機関には手頃な費用でアクセスを提供する科学、医療、技術関連の出版社とのパートナーシップ、Access to Research and Development for Innovation (ARDI)の確立。
- 後発開発途上国、開発途上および移行経済国の研究者に、特許および科学データ、出版物、付帯施設へのアクセスを提供するための約900件のTechnology and Innovation Support Centersを世界中に設立。
WIPOは、知的財産権業務、政策、情報、協力に責任を負う国連システム内の機関として、知的財産権およびイノベーションに起因する問題に対処するため、19世紀の創設以来培ってきた知的財産の政策、経済、法的分野における専門知識および経験を十分に備えています。
コロナ危機がもたらした多くの影響の一つに、国際レベルで政策が策定される際に用いられる通常のプロセスに混乱が生じていることが挙げられます。これらのプロセスでは、通常、組織のメンバー全員による包括的な会議が行われますが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックのこの段階で行うことは実質的に不可能です。したがって、このガイダンスは事務局長の責任の下で発行されており、いかなる加盟国を拘束するものではありません。
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