パラリンピックに好ましい変化をもたらす革新的な義肢
Maja Hoock氏、Ottobock社、知財・研究開発・広報 (IP & R&D Corporate Communications) マネージャー、ドイツ
2021年8月24日から9月5日まで、2020年東京パラリンピックが開催され、障害のある約4,400人のアスリートが22の競技で金メダルを争いました。知的財産で保護されたスポーツ用義肢は、選手たちが目標を達成するために使用した主な装具の1つでした。研究開発の成果によって、アスリートは運動能力を最大限に引き出すことができるようになりました。
Johannes Floors氏は、毎日最大6時間、レバークーゼンにある彼のトラックを走ります。8月に、世界中の選手と競うために日本に向かいました。「実は2016年からパラリンピックに向けて準備してきました」と26歳のFloors氏は言います。ドイツの陸上競技選手であるFloors氏は、東京パラリンピックで金メダルを獲得しました。Floors氏は現在、義足で走る世界最速の選手です。6月の終わりに、200メートルで自身の世界記録を更新し、100メートルと400メートルでも彼の障害クラス (T62) で最速です。しかし、こうした実績は簡単に手に入れたものではありません。Floors氏は先天性の腓骨欠損症で、両脚の腓骨がなく、さらに足は変形していました。短距離走は考えられませんでした。「激しい痛みがありました」と彼は言います。そのため、10年前に両脚を膝下で切断する決心をしました。「まだ病院のベッドにいるときから、学校のスポーツ・プログラムに登録すると決めていました」と振り返ります。現在は、日常生活用の義足のおかげで普通に歩くことができ、スポーツ用に設計された特殊なカーボン製スプリングがあれば走ることもできます。「走るスピードを感じることは最高の気分です」と彼は言います。
つい最近まで、パラリンピックの選手たちはスポーツ競技の際に、生活用の義肢を装着していました。短距離走用に特別に設計された義足を装着するようになったのは、1980年代に入ってからのことです。普通の足や現在のスポーツ用義肢と違って、従来の義肢は柔軟性が低く、特定のスポーツに必要な動きをすることが困難です。「突然、スポーツ用義肢が登場し、すべてが変わりました」とFloors氏は言います。
Ottobock社は現在、540を超えるパテントファミリーで発行された、1,886の特許を保有しています。この中には、パラリンピックスポーツ用の数々の技術イノベーションが含まれます。
スポーツ用義肢が人々の参加を促す
Ottobock社は、広く利用されているスポーツ用義足と車椅子のメーカーで、30年にわたりパラリンピック選手に装具を提供しています。ウェアラブルな人間生体工学で知られるOttobock社は、100年もの間、義肢を作り続けています。当初は、第一次世界大戦で負傷した人たちのために、木製の代替脚を製造していました。現在は、筋電義手などAIがサポートする義肢を製造し、技術の新しい基準を設定しています。
Ottobock社は現在、540を超えるパテントファミリーで発行された、1,886の特許を保有しています。この中には、パラリンピックスポーツ用の数々の技術イノベーションが含まれます。
例えば、俊敏な動きに対応する義足足部「1E95」は、バスケットボールやバレーボールで使用されています。この足部はシンプルな構造をしており、歩行、ジョギング、突然の方向転換を容易にします。Ottobock社は、短距離走と走り幅跳びの選手用に「1E91ランナー」を開発し、特許を取得しました。パラリンピックのレジェンドの多くが装着するこの義足は、各自のニーズに合わせて簡単に調整することができます。また、力のラインは身体の重心に近く、カーボン製スプリングをより効率的に使用することができます。
ビデオ: カーボン・ファイバー製の走行用ブレードができるまで
義肢装具 (O&P) の専門家であるJulian Napp氏は開発チームのメンバーで、2012年からパラリンピック競技会場のOttobockテクニカル修理サービスセンター (Ottobock Technical Repair Service Center) の責任者を務めています。アスリートたちは、修理が必要になった義肢や車椅子を作業場に持ち込みます。Napp氏は、技術者としての実務経験を開発プロセスに取り入れました。「足と身体のアライメントが適正になるよう、正確に作業する必要があります」と同氏は言います。
Johannes Floors氏が装着している同社人気の走行用ブレード「1E90スプリンター」のコンセプトは、Floors氏が生まれた26年前頃に遡ります。1E90スプリンターは1990年代に米国で開発され、その後Ottobock社がその製品を取得し、設計を改良しました。
このカーボン足は、カーボン・ファイバー製の吸着ソケットと共に装着し、排気バルブとシーリング・スリーブが付いています。残りの脚は一種のストッキング (ポリマー・ライナー) で覆われ、保護されます。ソケットと意匠権で保護された義足を接続する1E90用アダプターは、義足の位置を簡単に再調整することができるようになっています。「このアダプターを使用して、静的アライメントを完璧に調整することができ、制約なく走ることが可能になります」とNapp氏は説明します。
Napp氏は、短距離走と走り幅跳びで有名なHeinrich Popow選手やLéon Schäfer選手など、さまざまなスポーツやアスリートの注文に応じて義肢を作っています。「選手たちが次々と世界記録を塗り替えているのを見ると、本当に誇らしい気持ちになります」とNapp氏は言います。Napp氏はまた、現在の世界記録保持者であるJohannes Floors氏とも緊密に協力しています。「常にアスリートに合ったものになるよう、テクノロジーの調整に努めています。義肢はアスリートと共に進化しています」とNapp氏は指摘します。「Johannes Floorsのために作った義足をLéon Schäferなどの他のアスリートに使うことはできません。Johannes Floorsの義足では、Léon Schäferは速く走ることはできないでしょう。静的アライメントは一人一人違うからです。」
最初の機械式スポーツ用膝継手の特許
スポーツ用義足の発明にもかかわらず、膝上で大腿切断したアスリートたちは問題を抱えていました。残っている脚に直接カーボン足を装着し、義足同士をつなぎ合わせているアスリートもいました。結果はスポーツビデオで見ることができますが、脚を伸ばしたときに旋回するという特徴的な動きが見られます。スポーツ用膝継手を装着しないランナーは、遊脚期が過度に長くなるのを避けることができます。他のアスリートは、日常用義足と多軸継手で走っていましたが、実は走行には適していません。世界初となる単軸のスポーツ義足が解決策となりました。Ottobock社は、3R80継手をもとにこれを開発し、ロータリー油圧の特許が1995年にまずドイツで付与されました。*
3S80は、手動のロックと個々に調整可能な制動機能を備えており、非常にコンパクトで頑丈です。「ジョギングのとき、義足にかかる体重は2倍になります。短距離走では5倍に、走り幅跳びでは6から7倍になります」とJulian Napp氏は言います。スポーツ用の人工膝は、この力に耐える必要がありますが、同時に加速できるだけの柔軟性も求められます。つまり、この種のスポーツ用継手はアスリート向けに作られたものです。以前はアスリートが継手に合わせる必要がありました。
パラリンピック選手のMartina Caironi氏はこの種のスポーツ用膝継手を使用しています。イタリア出身のCaironi氏は、2020年東京パラリンピックで、走り幅跳びと100メートルで銀メダルを獲得しました。
2007年にCaironi氏はバイクの事故で左脚を失いました。スポーツの才能があることに気づいたのはリハビリ中のことでした。3年後、最初の記録を達成しました。「実はプロのスポーツ選手になりたいとは思っていませんでした」とCaironi氏は言います。「しかし、事故の後、義足を使って上手に走れることに気づきました。もし私の才能を追求しなかったら、もったいなかったと思います。」
Caironi氏は当初、日常用義足でスポーツに参加していましたが、その後3S80とカーボン製スプリングの1E91を使うようになりました。「技術革新を、身をもって体験することができました」と31歳のCaironi氏は言います。「私は変革の時代を生きています。」
パラリンピック陸上競技の歴史を通じて、手や足を切断していない選手の世界クラスの水準に匹敵する成績を上げているのは、ごく一握りのアスリートです。
継手が今よりフレキシブルで、加速に必要な安定性が低かったため、最初はスポーツ義足をコントロールすることが難しかったと同氏は言います。Caironi氏はこの継手を装着して2012年ロンドンパラリンピックで金メダルを獲得し、100メートルで14.65秒の記録を出しました。このレースで15秒を切った女性選手はCaironi氏だけでした。
2013年には走り幅跳びと100メートルで世界チャンピオンになり、2015年には200メートルで世界記録を出し、ドーハ障害者陸上世界選手権で金メダルを獲得しました。
新しい義足は、Caironi氏の生活の質も高めました。Caironi氏は、日常用の義足としてジニウムX3を使用しています。ジニウムX3は、さまざまな状況に自動的に対応するインテリジェントな膝継手です。「ますます移動しやすくなりました」と同氏は言います。「階段の昇降やジムでのワークアウトを考えることなく行うことができます。これはアスリートとしての私のキャリアにプラスの影響をもたらしています。」
ビデオ: 2020年東京パラリンピックへの情熱
義肢を使ったスポーツは、テクノロジーによるドーピングではない
Caironi氏がパラリンピックの競技で日常用の電子機械の義足の使用を認められなかったことを忘れてはなりません。国際パラリンピック委員会 (IPC) は、アスリートの障害がパフォーマンスに与える影響を考慮することについて、明確なルールを設定しています。このため、電子機器を使用していない受動的な義肢のみが認められています。使用を許可される義足の長さは、使用者の身長と大腿骨の長さを考慮した複雑な計算式で決められています。しかし、「強化された人間」というメディアの見方を変えることは容易ではありません。
Johannes Floors氏は、義足があれば健康な足を持つプロのスポーツ選手より速く走れるかと聞かれるたびに5ユーロもらえるとしたら、金持ちになれるだろうと言います。サイボーグの足を持つ超人についてのストーリーは、Floors氏にとって理解しがたいものです。「このようなストーリーは私のパフォーマンスを貶め、私は単なる義足に過ぎない、と暗に言っています」と同氏は言います。「まるで毎日6時間のトレーニングに何の価値もないように聞こえます。しかし、私のスポーツ義足は、日常用義足に比べてハイテクでもなく、90年代から全く変わっていません。」
WIPOの技術動向報告書「テクノロジートレンド2021年」
2021年3月、WIPOは技術動向報告書「テクノロジートレンド」の最新版を発表しました。今回は、モビリティ (移動) や視覚などの機能的制約のある人々が生活のあらゆる局面に参加し、潜在能力を十分に発揮できるようサポートする支援機器 (assistive technologies) をテーマに取り上げています。
この報告書は、テクノロジーの動向を追跡するシリーズの一部で、特許その他のデータの分析を通じて、特定分野のイノベーションについて、事実に即した信頼できる情報を提供するものです。
現在、10億人を超える人々が支援機器を必要としており、人口の高齢化に伴い、その数は10年後に倍増すると予測されています。2021年の報告書では、知的財産 (IP) が支援機器のイノベーションを促進していると結論付けています。しかし、この報告書に参加した専門家は、支援機器の利用者が、こうしたイノベーションをより広く利用できるようにする必要があると指摘しています。世界全体で見ると、必要とする支援機器を利用できる人は10人に1人に過ぎません。
この報告書は、グローバルな議論のための知識ベースを提供し、支援機器へのアクセスを改善することを目的としています。
主な調査結果
- 既存製品の小さな改善から、最先端技術の画期的な開発まで、イノベーションは機能的制約がある人々の生活を大幅に改善し、自立して生活し、意思の疎通を図り、働くことを可能にします。
- 近年、支援機器は2桁の伸びを記録し、ますます消費財と一体化しています。
- 支援機器に関する発明は、主に中国、米国、ドイツ、日本、韓国の5カ国で行われています。
- 支援ロボット、スマート家電、視覚障害者のためのウェアラブル機器、スマートグラスなどの新たな支援機器 (emerging assistive technology) の特許出願は、車椅子の改良および付属品、環境警報器、点字対応デバイスなどの従来の支援機器 (conventional assistive technology) に比べて3倍のスピードで増加しています。
- 新たな支援機器の中で特に成長が著しいのが、環境 (公共スペースにおけるナビゲーション補助具、支援ロボットなど) とモビリティ (自動運転車椅子、先端義肢など) の分野です。
- 支援機器の分野は、家電製品や一般医療技術の分野と重なりつつあり、 (先進センサーのおかげで) 侵襲性の低い支援製品と、聴覚、視覚、モビリティ回復のための脳幹インプラントなど侵襲性の高いソリューションが増加しています。機能的制約のある人々のために開発された技術は、主力製品にも応用されるようになっています。例えば、聴覚障害を支援する骨伝導技術は、ランナーのヘッドセットにも使用することができます。
- 人工知能 (AI) 、モノのインターネット (IoT) 、新素材、先端ロボット工学などの実現技術 (イネーブリング・テクノロジー) の発達と利用のおかげで、高性能の新しい支援製品が利用できるようになりました。
- 支援機器の開発をリードしているのは企業で、WS Audiology、Cochlear、Sonova、Second Sight、Ottobock、Össurなどの支援機器専門企業が含まれます。家電メーカー (Panasonic、Samsung、IBM、Google、日立など) と自動車メーカー (トヨタ、ホンダなど) も、支援機器を主力の家電製品に組み込む傾向が強まる中で、主要なプレーヤーとなっています。
- 大学や公的研究機関は、新たな支援技術に関するデータセットで、より大きい存在感を示し、特にモビリティ分野の活動がさかんです。
義足は進化していますが、パラリンピックのランナーのほとんどはオリンピック選手ほど速く走れません。パラリンピック選手のJohannes Floors氏は200メートルを21.04秒で走りますが、世界最速の非障害者のUsain Bolt氏はわずか19.19秒です。パラリンピック陸上競技の歴史を通じて、手や足を切断していない選手の世界クラスの水準に匹敵する成績を上げているのは、ごく一握りのアスリートです、その中には短距離走のJohannes Floors氏と走り幅跳びのMarkus Rehm氏が含まれます。「ブレードランナー」と呼ばれたOscar Pistorius氏はさまざまな理由で物議を醸しています。
国際パラリンピック委員会 (IPC) は、アスリートの障害がパフォーマンスに与える影響を考慮することについて、明確なルールを設定しています。このため、電子機器を使用していない受動的な義肢のみが認められています。
手足を切断したトップアスリートの生体力学分析の専門家であるThomas Schmalz博士は「義足を装着したアスリートは、加速が必要なあらゆる段階で依然として不利な立場にあります」と言います。パラリンピック選手は外傷性の事故、がん、手足の切断など、人生で困難な出来事を経験しています。「結局、彼らは障害を持ったアスリートなのです。片方の腕または足を切断した人は、筋骨格系の非対称性を補わなければなりません。神経系と筋肉系の固有受容フィードバック効果が欠如しています。筋肉組織と腱にあるセンサーによって引き起こされる主な反射メカニズムが欠けています」とSchmalz博士は説明します。
義足には、出だしの数歩の間に本来発揮すべきエネルギーがありません。しかも、義足の使用者は義足を自分の身体の一部と知覚することはありません。人口装具の分野の研究は、この欠点に取り組もうとしています。「使用者が義足を身体の一部、つまり身体の自然な延長、と感じることが理想です」とOttobock社の最高技術責任者であるAndreas Goppelt博士は言います。同博士の調査開発チームは、これを実現することを目指してプロジェクトを実行しています。その一例がフィードバック義肢です。
Johannes Floors氏は、義足を身体の一部と感じることができれば、普通の生活を送るための大きな一歩になるだろうと言います。「私は義足を自分のものであると感じていますが、さらに一体化した私の一部になってほしいと思います」と同氏は述べています。「しかし、がっかりする必要はありません。自分の目標を追求すればいいのです。そうすれば、義足が妨げになることはありません。」2020年東京パラリンピックでは、厳しい練習が実を結び、Floors氏は金メダルを獲得しました。
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