著者: Alexander Cuntz氏 (WIPOクリエイティブエコノミー課課長)、Alessio Muscarnera氏 (WIPO経済・データ分析部リサーチフェロー)
これまで、医療や顧みられない病気、特許保護技術へのアクセスに関する一般的な議論では、情報へのアクセスが経済発展に寄与する可能性が軽視されてきました。同様に、以前の調査では、知識へのアクセスという点で、低所得国と高所得国の間に驚くほどの格差が存在しており、低所得国では医療機関の半数以上が学術文献を定期購読していないことが明らかになっています (WHO、2003年)。
いくつかの国連機関と大手学術出版社は、この格差を埋めるためのイニシアチブとしてResearch4Life (以下、R4L) を立ち上げました。WHOは、R4L傘下にある5つのプログラムのうちの1つであるHinariを運営しています。Hinariは、100を超える途上国の少なくとも27万人の研究者に無償または低額で学術文献へのアクセスを提供しています。あくまでもこれは WHOが主導するこのプログラムに限っての話です。R4L全体では、査読付き学術雑誌21,000誌以上、電子書籍69,000冊、データおよびその他の情報源115件へのアクセスが可能となっています。
Hinariに焦点を当てたこの新しいWIPOの調査と実証分析は、Hinariの長所と短所を理解するために何百万点ものデータポイントを解析しています。これは、科学とイノベーションをつなぐパイプラインに沿って、途上国における学術論文へのアクセスを福祉と関連づけた最初の調査研究です。
特定の地域にある研究機関や、すでに高い実績を上げている研究機関は、Hinariを最大限に活用しています。これは、それらの機関になかなか追いつけない研究機関が存在することも意味しています。
報告書 によると、Hinari参加後の地域における健康科学に関する学術論文の数は最大75%増加したといいます。同様に、国際的な臨床試験への関与も20%以上増加しており、地域における研究機関の研究とイノベーションが向上したことを示唆しています。健康科学関連の学術論文リポジトリ (保管庫) であるPubMedで3,600万本以上の学術論文をスクリーニングしたところ、途上国の地域研究者による共同執筆論文は16万7,000本以上にのぼり、過去30年以上にわたって世界各地で実施された臨床試験データがそれらの論文で引用されていることがわかりました。
しかし、こうした学術論文や臨床試験の増加は、世界的な特許や発明に部分的にしか結びついていません。その理由として、途上国には新たな知見を特許技術に転換するためのインフラや資金がしばしば不足していることが挙げられます。この格差は、イノベーションと知的財産制度を発展させるうえで残された課題があることを明らかにしています。
さらにこの報告書は、それぞれの地域が置かれた環境の重要性も指摘しています。特定の地域にある研究機関や、すでに高い実績を上げている研究機関は、Hinariを最大限に活用しています。この事実は、いくら情報へのアクセスが改善されても、それらの機関になかなか追いつけない研究機関が存在することも意味しています。
地域研究者の能力向上に資するための情報へのアクセスの提供は、彼らの仕事にとって欠かすことのできないものです。地域研究者は、地域住民の健康を脅かし、海外の研究者たちが見過ごしている可能性のある病気を研究対象にする傾向があります。そうした病気に関する情報へのアクセスが可能になれば、主として地域のチームを世界的な知識ベースにつなげることで、顧みられない病気の分野でイノベーションを起こすことができるかもしれません。
R4Lは、科学活動を活発にしただけでなく、医療行為や患者ケアの改善など、現場でのHinariの直接的効果についても報告しています。R4Lは、ベトナムのハノイにあるベトドク病院のNguyen Duc Chinh医師の次の言葉を引用しています。「優れた研究は、言うなれば、より良い患者ケアにつながる」。Nguyen医師は、Hinariを大いに利用して腸結核と外科治療に関する博士号を取得しました。結核はベトナムでは一般的ですが、腸結核に関する情報は相対的に不足しています。「私たちは情報や知識を得ることで、世界中で高く評価されている医療専門知識を自信をもって実践し、導入することができる」と、Nguyen医師は語ります。
地域研究者の能力向上に資するための情報へのアクセスの提供は、彼らの仕事にとって欠かすことのできないものです。
ブルキナファソのワガドゥグーにあるKamboinsé Research Station (カンボワンセ研究所) のSami Hyacinthe Kambire博士も、Hinariのおかげで研究の進展が早くなり、助成金の獲得につながる資金申請書の作成が可能になったと述べています。Kambire博士は、R4Lを採用するまでは、他の地域ですでに行われている研究に多くの時間を割いていました。R4Lのおかげで、全世界の健康科学分野においてそのような研究活動の重複が減り、地域における研究指導や教育の質が向上しました。
Hinariは、影響は大きいものの、その効果は世界の地域によって異なることがわかりました。新しい科学的知識を生み出すうえで最も恩恵を受けたのが、カリブ海諸国、中央アジア、ヨーロッパ、ラテンアメリカの研究機関です。それらの地域の研究機関が発表した学術論文は、平均で80〜100%増加しました。
臨床試験に関しては、Hinariへの参加によって最も大きな影響が認められる地域は、東アジア、太平洋、中東、北アフリカです。これらの地域の研究機関では、臨床試験の実施率が最大35%上昇しました。その他の地域がHinariの恩恵を受けていないわけではありませんが、その影響は微々たるものです。
これらのデータから、学術論文と臨床試験に関しては、たとえHinariに参加していても、生産性の最も高い研究機関と最も低い研究機関の間の格差は開いたままであることがうかがえます。
もっとも、研究機関による違いもあります。特に、この報告書の執筆者たちは、研究業績の高い機関と低い機関とでは事情が異なるため、単純比較は避けたいという考えでした。業績の高い研究機関の方が、そもそもHinariを採用する可能性が高いかもしれないからです。しかも、学術論文が増えたということは、Hinariの成果というよりも、むしろ結果的にそうした研究機関がHinariの対象に選ばれたからかもしれませんし、現場での知識へのアクセスが改善されたからかもしれません。この報告書は、単なる相関関係ではなく因果関係を明らかにするために、異なる分野を比較しています。具体的には、Hinariの支援を受けている健康科学分野の研究活動と、同じ機関で研究が行われているがHinariの支援を受けていない他の研究分野のそれとを比較しています。
これらの要因を除いたうえで、報告書は、Hinariの運用が2つの点で改善の余地があることを示唆しています。第一に改善すべきは、すでに生産性の高い研究機関の方がHinariからより多くの恩恵を受けている点です。例えば、以前から学術論文を発表していた研究機関では、Hinari参加後の論文数が平均60〜70%増加しました。一方、過去に学術論文をほとんど発表していない研究機関では、この割合は40%程度にとどまっています。この事実は、たとえHinariに参加していても、学術論文や臨床試験に関しては、生産性の最も高い機関と最も低い機関の格差は開いたままであるということを示唆しています。こうした状況のもとでは、生産性の低い研究機関が、他の条件がすべて等しいとしても、生産性の高い研究機関に追いつくことは至難の業でしょう。
それでもなお、報告書は、HinariとR4Lが持続可能な開発目標の実現に貢献しているという見方を最終的に支持しています。それらは、途上国における研究とイノベーションの能力を向上させ、地域の機関における保健サービス (目標3) と教育の質 (目標4) を高めるのに役立っています。また、HinariとR4Lは、産業、イノベーション、インフラを構築し、適度な経済成長 (目標8と目標9) を促進することも目指しています。
報告書は、HinariとR4Lが持続可能な開発目標の実現に貢献しているという見方を支持しています。
R4Lは、官民のイニシアチブがどうすれば成果を上げることができるかを示す優れた例でもあります。それは、世界の出版業界の民間利害関係者と国連加盟国の研究機関とをwin-winの関係で結びつけるものです。研究機関にとって、R4Lは現実的な解決策を与えてくれます。そうした機関の図書室や研究室は、多くの場合、リソースをより充実させる必要があり、R4Lは学生や研究者にとって情報へのアクセスを改善してくれます。また、業界の関係者にとっても、企業の社会的責任を示し、途上国において社会的影響力を強めるための優れた手段となっています。長期的には、地域の需要や顧客基盤の拡大にも役立つでしょう。
さらに、HinariやWIPOのAccess to Research for Development and Innovation (ARDI) (開発・イノベーションのための研究へのアクセス) のようなイニシアチブを通じて公開された研究データにアクセスしやすくすれば、研究成果に大きな影響を与え、SDGsの掲げる望ましい社会的・経済的成果に貢献することができます。WHOやWIPOのような国連機関は、重要な仲立ちをしてきました。他方、既存の格差に対処するWIPOのTechnology and Innovation Support Centers (TISC) (技術・イノベーション支援センター) のようなスキームは、地域のインフラ構築や活力ある知的財産・イノベーションシステムへの貢献に役立つかもしれません。結論を言えば、この報告書に示された成果と残された課題に関する知見は、2025年以降のR4Lへの参加を更新するか、または変更するかに関する利害関係者の意思決定に影響を与えるかもしれません。
この報告書は、Alexander Cuntz氏 (経済・データ分析部クリエイティブエコノミー課課長)、Frank Müller-Langer氏 (ミュンヘン連邦軍大学デジタルトランスフォーメーション教授、マックスプランク・イノベーション・競争研究所フェロー)、Alessio Muscarnera氏 (経済・データ分析部クリエイティブエコノミー課リサーチフェロー)、Prince Oguguo氏 (経済・データ分析部クリエイティブエコノミー課若手専門家)、Marc Scheufen氏 (ケルンドイツ経済研究所 (IW) シニアエコノミスト) によって執筆されました。
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