先住民の知識に関する国際交渉がWIPOで再開: これまでの経緯と今後の道筋
Wend Wendland氏、, WIPO伝統的知識部ディレクター、WIPO IGC事務局長*
*本稿に記載されている見解は著者の個人的な見解であり、必ずしもWIPOまたはWIPO加盟国の見解を反映したものではありません。
12年前、WIPOの加盟国は知的財産(IP)、 遺伝資源 (GRs)、伝統的知識 (TK)、 伝統的文化表現 (TCEs)に関する国際的な合意の形成を目指して、正式に交渉を開始しました。これらの交渉は、IGCと呼ばれる政府間委員会で行われています。2020年と2021年は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより交渉が中断されましたが、2022年は再開される予定です。この記事では、これまでの交渉の起伏ある道のりをたどります。
背景
IGCは2000年のWIPO総会で設立されました。IGCのマンデートは通常2年に1度、総会で決定されます。9月に、IGCの2022-2023年のマンデートが加盟国の合意により更新されました。
その目的は引き続き、遺伝資源、伝統的知識、伝統的文化表現の「効果的かつバランスの取れた保護を確保するための知的財産に関する国際的な法的文書について、結果の性質に予断を与えることなく、合意に達すること」です。
伝統的知識の本質的な認識論的価値および科学的価値、伝統的文化表現がコミュニティの文化的生活において果たす役割、生命科学における遺伝資源の価値について、多くのことが書かれてきました。これらは、その保護強化の十分な支持理由になります。
IGCのマンデートの少なくとも一部に関しては、それぞれにメリットがある現実的な成果が得られそうです。実質的な進展も見られます。
国際的な合意がもたらすメリット
IGCの交渉により国際的な合意が実現すれば、さらにいくつかのメリットがあるでしょう。
その一部は政治的なものです。プラスの成果としては次の可能性が考えられます。
- 知的財産制度が柔軟であることと、広範な利益に資することを示すことができる。
- 知的財産制度の公平性とバランスの改善を求める途上国の長年の要求に応えることができる。
- 多国間主義への新たな信頼感を生み出すことができる。
- 持続可能な発展に対する知的財産制度の貢献が強化されることで、あらゆる地域で知的財産制度の正当性についての認識を高めることができる。
その他のメリットとしては、経済および文化の発展が挙げられます。先住民と地域コミュニティは、伝統的知識と伝統的文化表現の第三者による使用から、恩恵を受けることができると考えられます。自分たちの決めた条件で収入を生み出したり、知的財産エコシステムのステークホルダーとなってグローバル市場で活動することを望むコミュニティの人々は、このような第三者使用により力を得る可能性があります。
法律的な観点からすると、国際的な原則に関する賢明な合意、すなわちバランスの取れた、有意義で、しかも規範的すぎない合意は、現行の各国および地域の様々な法律を調和させ、国境を越えた保護の仕組みを提供すると考えられます。遺伝資源については、慎重でバランスの取れた特許開示要件が、特許制度の質、効率性、透明性をさらに高める可能性があります。
また、IGCの交渉が成功裡に終われば、企業や研究者にとっての不確実性が低減し、彼らの活動に適用されるルールの明確さと予測可能性が高まることによって、ビジネスおよび研究開発の環境にメリットをもたらすでしょう。
IGCのマンデートの少なくとも一部に関しては、それぞれにメリットがある現実的な成果が得られそうです。実質的な進展も見られます。
しかし、この野心的な交渉には困難な課題があります。
主な課題
課題は、問題の性質 (実体) 、委員会が機能する仕組み (プロセス) 、広範な多国間環境における状況 (背景) に関連しています。
相互に関連し合う複雑な関係
知的財産と遺伝資源、伝統的知識、伝統的文化表現との関係は、専門的に複雑なものであり、課題はそれぞれ異なりますが相互に関係しています。交渉は知的財産制度全体にわたります。このため、交渉者には非常に高度で確かな専門知識が求められ、国レベルでの広範にわたる調整と政策の一貫性が必要になります。しかも、交渉に利用できるような、効果的な国内法や地域法はごくわずかです。IGCの会合が頻繁に行われていることは、進展を目指す各国の決意の表れと考えられますが、交渉プロセスの激しさとこれまでの長い交渉期間は、活力と勢いを低下させる恐れがあります。
交渉の切り札はほとんどない
もう1つの課題は、IGCで交渉が行われている問題と、国際的な知的財産のアジェンダに関する他の問題との相互依存性が比較的低いことにあります。これにより、交渉を求める側 (demandeurs) (規範的な成果を求める国々) には、求める側でない国々から譲歩を引き出すための手段 (複数の課題を一括交渉する余地) がほとんどなくなります。
さらに、様々な国際フォーラムでこれらの課題を細分化して対処することは、地域横断的なダイナミックな連携を構築しようと求める側の国々の取り組みを困難にします。知的財産だけにとどまらず環境、人権、文化の課題に取り組むことを目指す交渉は、これまで国際規範を設定する際に求める側になることが少なかった国やコミュニティが牽引しています。
政治的意思のレベルの違い
進展をさらに妨げているのが各国の政治的意欲の差で、IGCの目標と期待される成果に対する各国間の意見の相違は根強いものがあります。このことが、歩み寄りが期待できる効果的な作業方法を策定しようとするIGCの試みの妨げとなっています。
IGCでの議論は、当事者の利益に基づく真の交渉というより、周知の見解を形式的に交換する場へと硬直化しつつあります。交渉者が異なる方向にロープを強く引っ張るほど、その間にできる結び目は固くなります。「全てが合意されるまで何も合意されない」というアプローチは、IGCでコンセンサスを得ることが極めて困難になることを意味し、これは現在の多国間プロセスのほぼ全てに当てはまります。
市民の注目度の低さ
また、これらの課題はまだ一般市民の心を動かすほどではないと見られています。一般の人々と市民社会からは、交渉の迅速な妥結を求めるプレッシャーはほとんどありません。
マイルストーン: 初期
IGCの初期の活動では、事実収集、技術分析、実用的知識の交換、政策に関する議論が行われ、国および地域の法体制に関する数々の貴重な情報が収集されました。
規範設定以外の活動に重点が置かれ、有益で実用的な成果がいくつか得られました。例えば、伝統的知識の防衛的保護 (伝統的知識に対する特許権利化の防止) に向けて、伝統的知識の先行技術としての認識向上を図る具体的な最初のステップを踏み出しました。
新しい基準を設定する取り組み (「規範設定」) 、特に伝統的知識と伝統的文化表現の積極的な保護または直接的な保護については、交渉は合意に至りませんでした。この分野で進展が見られないことについて、多くの国の間で焦りが広がり、経験に基づく情報の収集や規範設定以外の実用的成果を求める活動を時間の無駄と考える向きもありました。
規範設定への方向転換
2003年7月、IGCは2004-2005年の新しいマンデートについて合意が得られませんでした。この出来事は、IGCで初めて真の危機が発生するきっかけとなりました。4回のセッションを経て、IGCのタスクの重大さがますます明確になり、IGCの全体的な目的と期待される成果に対する加盟国間の期待の大きなギャップも明らかになりました。
迅速な規範設定を求める側の期待は、実現が難しくなりました。一部の国では、目的や基本理念、中心概念について広範な合意を取り付ける前に、規範設定に着手するのは時期尚早だという意見もありました。2003年のWIPO総会で、加盟国は周到に設定されたマンデートに同意し、このマンデートで初めて「国際的な文書」への言及がありました。これは規範設定への明確な方向転換となりました。
しかし、途上国は次第にIGCの規範設定の有効性に疑問を持つようになりました。IGCは再び重大な局面を迎えましたが、包括的な交渉文書を正式に提案した加盟国はありませんでした。2005年、WIPOの伝統的知識部 (Traditional Knowledge Division) は、伝統的知識と伝統的文化表現に関する草案を作業文書として発表しました。
多くの国は、これらの文書は合意できる分野とできない分野を正確に指摘する上で役に立つと考えました。しかし、求める側以外の国々は草案に取り組む準備が整っておらず、この作業の代わりに「問題点」に関する議論が行われました。
加盟国の要請を受けて、WIPO事務局はIGCの取り組みの「国際的側面」に関する資料を作成し、知的財産制度が提供する保護と、先住民、地域コミュニティその他求める側のニーズや要求とのギャップを分析しました。このギャップ分析は、最近更新されました。
2010年に開始されたテキストベース交渉
2009年後半に、WIPO総会は2010-2011年のマンデートを大幅に強化することで合意し、これは多くの人に驚きをもって迎えられました。この時初めて、以下について言及がなされました。
- 3つのテーマ全てに関する「テキストベース交渉」
- 「国際的な法的文書」 (強調筆者)
- 外交会議を開催する可能性
この表現によって、求める側の国々の期待は再燃しましたが、求める側でない国々は時期尚早と考えていた規範を設定する取り組みに引き入れられることになりました。IGCのマンデートの野心的目標と交渉の成熟度との間に隔たりを感じる人は少なくありませんでした。
新しい作業方法
2010年から、IGCが真のテキストベース交渉に着手しようと熱心に取り組んだことで、より効果的な作業方法の模索が注目されるようになりました。小規模な非公式のグループでの進展が、総会で覆されることがしばしばありました。一進一退が繰り返され、時には「一進」よりも「一退」の方が多いこともありました。
突破口となったのは「会期間作業部会」(IWG: intersessional working groups) で、2010年から2011年にかけて、かなりの技術的進歩が見られました。作業手法に関する他のイノベーションも試されました (作業手法のイノベーションに関する詳細はこちらをご覧ください)。プロセスが結果を左右することが多いため、包括性・透明性と効率性・有効性のバランスを取ることが課題でした。
遺伝資源: 明確性の出現
遺伝資源に関する交渉は、ある交渉文書が初めて出現したことにより、2012年に大きく前進しました。新しい特許開示要件に関する選択肢がより明確になり、この問題での合意に対するプレッシャーが高まりました。2018年にWIPOは、特許開示要件に関する政策課題と各国の経験をまとめた資料を初めて出版しました。この刊行物は2020年に改訂されました。
2019年4月、IGCのIan Goss議長は、自身の権限に基づいて、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する国際的な法的文書の草案を作成しました。これは現在、IGCの作業文書の中で、議長テキストとして重要な役割を果たしています。
2015年のギャップイヤーと現局面
2014年後半のWIPO総会では、2015年のIGCセッションのスケジュールに合意することができず、多くの人々にショックを与えました。交渉は停止し、IGCの将来に重要な影響を与える可能性がありました。
幸いにも、2015年に加盟国はマンデートを更新し、2016-2017年の作業計画に合意しました。その内容は、その後合意された2018-2019年のものとほぼ同じでした。その表現には解釈上の曖昧さが含まれているかもしれませんが、「アドホック専門家部会」 (ad hoc expert groups) (アドホック専門家部会」に関する詳細はこちらをご覧ください) は、これらのマンデートにおいて役に立つ新しい特徴でした。
2019年までに、一部の国から調査と費用対効果分析を実施する提案がありましたが、同意は得られず、明らかな進展は見られないままでした。ほとんどの代表団は周知の見解を繰り返すことに終始し、妥協案を生み出すために、互いに交渉することはありませんでした。
先住民と地域コミュニティの参加を奨励する
IGCは、先住民や地域コミュニティが特に懸念している問題に対して、WIPOの他の作業分野にも増して熱心に取り組んでいます。IGCは、先住民と地域コミュニティが知的財産に関する国際的な政策立案に参加できるようにする仕組みを初めて構築しました。例えば、先住民と地域コミュニティのIGCセッションへの参加を支援する任意基金であるWIPO Voluntary Fundがあります。また、WIPO先住民フェローシッププログラムの下で、先住民が伝統的知識部で最長2年間働いています。
加盟国、先住民、地域コミュニティのための実用的なサービス
WIPOの伝統的知識部は、IGCプロセスの運営に加えて、幅広い技術支援および能力開発サービスを提供しています。このサービスは、加盟国による政策、戦略、法律の整備を支援し、先住民および地域コミュニティが希望に応じて既存の知的財産ツールを効果的に使用できるよう、彼らの実際的な能力を向上させています。また、実際の様々な状況における知的財産と遺伝資源、伝統的知識、伝統的文化表現に関する課題について、幅広いステークホルダーに実践的なトレーニングを提供しています。
終わりに
IGCのマンデートが繰り返し更新されていることは、多国間による課題解決の必要性を各国が引き続き認識していることを示唆しています。
IGCはこれまで長い道のりを歩んできました (…) 交渉者がIGCの交渉過程に新しい活力を与え、交渉をゴールへと導くことが期待されます。そうすることで、彼らは歴史を変えるでしょう。
2000年以来、交渉者は重要な資料を数多く作成してきました。国および地域の法制定の取り組みでは引き続き、交渉文書の草案が利用されており、こうした草案そのものが優れた成果物です。
しかし、各国間の政治的意欲の違い、目標や中心的な政策課題に対する見解の隔たり、技術的課題に対する理解度の不均衡によって、困難が生じています。
交渉を進展させるには
まず、真に利益に基づく交渉を開始することが優先事項です。つまり、交渉者が地位を巡る駆け引きにとどまらず、お互いの利益や選択肢、代替案に細心の注意を払うということです。第2に、あらゆる形態の「同意に基づく」意思決定を検討することと、「一括受諾方式」のアプローチを再考することが有効でしょう。
プロセスの目的とゴールを明確化することも重要です。同様に、少人数の代表団が、意思決定機関である総会を支援するために、セッション間に効果的な活動を行うことも、交渉の進展に役立つと考えられます。求める側の国々は、地域を越えて連携し、政界の長老をプロセスの「擁護者」として巻き込み、全ての関係者に価値を生み出すような成果を得るために合意可能な選択肢を特定し、市民社会を活気づけることによって、交渉をリードする必要があります。
これまでのような交渉が続けば、交渉者は歴史を繰り返すのみとなるでしょう。
IGCはこれまで長い道のりを歩んできましたが、具体的な成果が乏しく、パンデミックによる中断もありました。交渉者がIGCの交渉過程に新しい活力を与え、交渉をゴールへと導くことが期待されます。
そうすることで、彼らは歴史を変えるでしょう。
IGCの体制
- 総会: IGCの全加盟国と認定オブザーバーによる会合。IGCプロセスの意思決定機関。IGCはWIPO総会に報告を行います。
- テーマ別セッション: 遺伝資源、伝統的知識、または伝統的文化表現に特化したIGCセッション。これに対し、横断セッションでは、2つまたは全てのトピックで発生している課題にIGCが対応できるよう、2つ以上のトピックに焦点を当てます。
- アドホック専門家部会 (ad hoc expert group): 加盟国と先住民の集会によって指名される専門家で構成される部会。IGC関連のトピックに関する法律、政策、技術面の具体的な課題に取り組むために、個人の資格で会合を開きます。これらの部会は、IGC総会の交渉を支援・促進します。
- 会期間作業部会 (IWG: intersessional working group): 2009年にWIPO総会によって設立され、IGCに法律および技術的な助言と分析を提供します。2010年と2011年に、各加盟国から1名ずつ選出された技術専門家と個人の資格で参加する認定オブザーバーによる作業部会がそれぞれ5日間開催されました。詳細な手順は2010年5月のIGCで合意されました。現在までに、新しい会期間作業部会は設けられていません。
- コンタクトグループ、非公式会合、非公式な非公式会合: IGCセッション中に開催されるこれらの会合は、各地域グループから限られた数の代表者と1~2名の先住民の代表が参加することが一般的です。重要な問題について話し合い、IGC総会で検討するための文書またはその他の方法による提案を行うための、非公式・非公開の会合です。
- 進行役 (ファリテーター): 議長によって推薦され、IGCによって承認される個人の代表者です。議論を注意深く見守り、見解や立場、提案を記録し、提案書を作成し、総会で検討する交渉文書の修正版を作成することによって、テキストベースの交渉を支援します。
- 議長の友 (Friends of the Chair): IGC議長が招待する代表者またはその他の人物で、継続的または臨時に議長を補佐し、議長に助言を行います。
- セミナー: 2015年、2016年、2017年にWIPO事務局によって運営された非公式の場で、加盟国の代表者およびオブザーバーの代表者が参加し、地域、国、コミュニティの手法や経験を共有するとともに、IGCの重要課題について意見を交換します。
- 専門家起草部会: IGC総会で検討する交渉文書の修正版を作成する、オープンエンドの非公式な起草部会です。
- 高官セグメント: 高官 (大使や政府高官など) の間で開催される会合。IGCの交渉に関連する主要な政策課題について見解を共有するために開催され、IGC総会に情報を提供します。高官の会合は、2014年2月のIGCセッション中に開催されました。
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